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奈良地方裁判所 昭和46年(わ)57号 判決 1972年2月08日

被告人 稲山勝巳

昭二〇・二・五生 左官見習(元自動車運転者)

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は別紙記載のとおりである。

よつて判断するに、(証拠略)によると、次のような事実が認定できる。

(1)  被告人は公訴事実中に記載されているとおり、奈良交通株式会社のバス運転手として、その日時・場所で定期路線バスを運転し西進中、出雲停留所でバス待ち客を乗車させるために停車した際に、その内の一人の乗客の右肩付近に、バスの左側前部の方向指示灯が接触して、本件事故となつたものである。

(2)  出雲停留所は国道一六五号線(幅員六、四五メートル、コンクリート舗装になつており、歩車道の区別がない)に面して、同道路の南側に位置しており、停留所と国道との間には国道に平行して幅員二、五五メートルのバス停車用の待避場所(以下待避場所という)が設けられてある。従つて同停留所に到着するバスは、国道から略一車線程度だけ道路を左方に逸らして待避場所に入り、停車することになる。

(3)  同停留所には、バス待避場所に平行してその外側に約一五センチメートル高い、幅員一、二メートルのコンクリート製帯状の地帯が設けられて、そこが乗客の待合場所となつており、その帯状の地帯の中程の外側に停留所の標識が設置されている。

(4)  同停留所附近は見透がよく、被告人は時速約三五キロメートルで進行し、同停留所の約三〇メートル手前に差しかかつた際、バス待ちの客七、八名を認めたので、時速約五キロメートルに減速し、国道から待避場所に逸れて停留所に停車した。

(5)  被害者はバスの到着する約一五分前からバスを待つており、バスが国道上を接近して来るのを認めて、それに乗車するためそのバスの到着する直前に、他の数名のバス待ち客と共に、帯状の地帯の前面の方に進み出たが、バスが停留所で停止する直前(場所的には停止位置の約一メートル手前)に、被害者の右肩付近とバスの左側前部の角付近に取り付けてある方向指示灯(車体から約一〇センチメートル突出している)が接触して、傷害事故が生じた。

(6)  被害者が前記のとおり停留所の前面の方に進み出るにあたつては、進入して来るバスに対して、注意を払つていたという形跡は全くうかがわれない。

(7)  本件バスは乗車定員七〇人、車体の長さ九、一五メートル、幅二、四八メートル、高さ三、〇三メートルであるが、国道から逸れて前記のように狭い待避場所に入るに際しては、停車する直前に、車体の左側前部角付近が、乗客の待合場所となつている帯状の地帯の前面コンクリート縁から約一五センチメートル内側に入り込むことがありうる。本件接触事故は、バスがこのような状態になつて車体の一部が帯状の地帯の内側に入り込んだ丁度その時に、そのバスに乗ろうとして前方に進み出ていた被害者と接触して、発生したものとみられる。

(8)  被告人は右事故の発生を現認しなかつたが、乗車した被害者の申出で、その直後に事故を知つたものである。

以上の事実が認定できる。尤も、前掲(ハ)の証拠によると、被告人が本件事故の発生を現認したような記載になつているが、この部分の記載は、前掲(イ)、(ロ)の各証拠に照し信用できないし、他に右認定に反する証拠はない。

二、次に前記傷害事故について、被告人の過失の有無を検討する。

この点について本件公訴事実によると、被告人(イ)がバス待ちをしていた被害者らの動静に注意しなかつた点、及び(ロ)被害者らとの間隔を充分に保たず、極めて近接して進行、停車したという点が、被告人の過失として指摘されている。そこで右二点の内、(ロ)の点から先きに検討する。

被告人が停留所にバスを停車するに際し、車体の一部を、乗客の待合場所となつている帯状の地帯の前面コンクリート縁よりも内側に入り込ませたことは前記のとおりであり、このことはバスを過度に接近させたことにならないかという点が問題になる。この点について、被告人は乗客の便宜を考えて接近させたと説明しているが、それのみでは根拠不充分といわねばならない。

しかしながら一般的に考えて、本件のように乗客の待合場所が一段高く作られた停留所において、本件程度にバスの車体の一部が待合場所に入り込んだとしても、そのこと自体は、通常の判断力を備えた乗客にとり、予想外に危険なバス操縦という程ではないと考える。

なぜならば、例え道路より一段高い待合場所であつても、その前面の部分は、バスの発着時には危険な区域になるのであり、又バスが完全に止まるのを待たないで前の方に進出するという行為は、危険な行為である。そして、その危険性は一般によく知られているから、乗客は誰でもバスの発着時には相当な間隔を保つように注意して、不用意に前方の危険な区域に入らないようにするのが普通であるし、待合場所の前面から一五センチメートル内側の付近は、一般的にそのような危険な区域内と考えられているとみられるからである。勿論、バスが完全に止るのを待たずに、前に進出する乗客は皆無とはいえないが、あえてそのような行動にでる乗客は、それに伴う危険を自覚してバスの動きに注意を払い、自らの判断でそれなりに必要な間隔を保つているのであり、又そのような注意を怠らねば、その場の状況に対処して危険な事態を回避することは、容易に可能でもある。

本件被害者はかねてよりしばしば同停留所から同路線バスを利用しており、当時身体的に何ら欠陥なく、通常の思慮分別の期待される社会人である。しかも同人は、バスの到着する以前から危険な区域内に佇立していたというのではなくて、前記のとおりバスの接近を知つて、これに乗車すべく数名の乗客と共に、待合場所の前面の方に進み出て、停止する直前のバスと接触したというのである。バス運転者としては、特に思慮分別の足りない幼児がいるとか、或いは特に不注意な行動に出るであろうと考えられるような乗客がいる等、特殊な事情がある場合には、これを計算に入れて充分な間隔を保つ等の配慮を尽さねばならないが、本件の場合には、そのような特殊な事情は何らうかがえない。そのような特殊な事情がない限り、待合場所の前面の部分に車体の一部がかかつていたとしても、前記危険な区域からはみ出たのでない限り、通常の場合には、乗客との間隔は一応保たれているとみられる。そして乗客がバスの停止直前に、あえて危険な区域内に進出しながらも、自らはその行為のもつ危険性を何ら自覚していないというようなことは、バス運転者としては極めて異状な事態であるといわざるをえず、乗客がそのように異状な行動に出ることまでを予測して、これとの間隔を充分に保たねばならないとする程の注意義務は認め難い。従つて被告人には、前記(ロ)の点について過失がないといわねばならない。

次に、(イ)の点について過失の有無を検討する。

被告人が本件接触事故の発生を現認しなかつたことは前認のとおりである。しかし前掲各証拠によれば、被告人は被害者ら数名の乗客が待合場所の前面の方に進出する状況については、これを現認したけれども、その状況には格別異状とすべき特殊な行動を見出さなかつたということが認められる。そして当時の停留所での状況に照し、被告人の右認識と判断には、バスの運転者として殊に誤りがあつたとなすべき点は見出し難い。従つて前記(イ)の点についても被告人には過失がないといわねばならない。

以上要するに、被告人には運転上の過失は見出せず本件事故は、寧ろ被害者がバスの動きに全く注意を払わずに、不用意に待合場所の前面に迄進出したという、一般に予測しえない特異な行動に出た点に起因するものといわねばならない。

よつて、本件公訴事実については犯罪の証明がなく、刑事訴訟法三三六条に従い被告人に対し無罪の言渡をする。

(別紙)

公訴事実

被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四五年八月一四日午前一〇時一七分頃、奈良交通株式会社所属のバス(大型乗合自動車)を運転して奈良県桜井市大字出雲一一九七の一番地付近道路を西進中、道路左側に設けられた同会社の出雲停留所にさしかかり、同所で停車するにあたり、同停留所には道路より約一五糎高くなった待避所が設けられていて、その待避所にバス待ちの枝シマエ(五二年)外数名の客が立っているのを認めたのであるから、同人らの動静に注意して、同人らに接触の危険のない十分な間隔を保って停車すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同人との間の安全を十分配慮することなく、漫然時速約五粁で同人らに極めて近接して進行のうえ停車した過失により、前記枝シマヱの右肩付近に自車左側前部方向指示灯付近を接触させ、よって同人に対し、同日より同四六年二月一八日まで約六ヶ月間治療を受くるもなお治癒不能の可能性大とされる外傷性頸椎症候群、外傷性上腕神経叢不全麻痺等の傷害を負わせたものである。

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